'''ガチンコ'''は、大相撲において真剣勝負を意味する隠語である。稽古場で力士が激しく当たり合うとき、「ガチン!」という音がするところからきている。また力道山以降、大相撲の慣習・文化が多数取り入れられた日本のプロレス界においても、同様の意味で用いられる。反対語は大相撲においては「注射」、プロレスにおいては「ケーフェイ」、「ワーク」などと呼ばれる。
プロレス界で使われるガチンコとほぼ同義の隠語である「'''シュート'''」の詳細については後述。プロレスは多くの場合、予めストーリーラインが決まっているといわれており、それに基づいて試合が行われる。しかしながら様々な理由(選手間のプライヴェートな人間関係など)によりそのストーリーを無視して試合が進行してしまう場合がある。このような試合を'''ガチンコ'''、または略して'''ガチ'''と呼ぶ。
ここで留意すべきは、'''ガチンコは危険行為・反則行為を容認することを指す用語ではない'''という点である。試合をいわゆるガチンコの状態に至らせる行為は、「観客に魅せる」ことが最優先の職務であるプロレスにおいて最大の禁忌といえる。過去に発生したガチンコとされる試合は、往々にして非常に危険な行為(急所への攻撃、一方的に攻撃をしかけるなど)が散見され一般的な評価は極めて低い。これらのことからプロレスにおけるガチンコとは、故意の暴挙による事実上の試合放棄、またはエンターテインメントとして崩壊した試合状態を指す言葉と捉えるファンが大多数を占めている。アメリカのプロレス業界における'''シュート'''(''Shoot'')とは、「真剣勝負」を意味する隠語、及びプロレスラーとして最も大切な「観客に見せること」を無視し、本気で相手を潰そうとする行為を指す業界用語(スラング)。
語句の由来は「(銃で)撃つ」であるとされる。日本のプロレス界でも1980年代後半から1990年代にかけてこの用語が使われ始め、現在はガチンコとの類語・同意語として広く普及した。用語の使い分けとしては、試合内容についてはガチンコ、リング外での本気の仕掛けをシュートと呼ぶ場面がしばしば見られるが、明確には使い分けられていない。アメリカではリング内外どちらもシュートと表現する。
シュートを表すジェスチャーである人差し指を立てたサインは「'''シュート・サイン'''」、または「'''シューティング・サイン'''」と呼ばれ、即ち拳銃を模したものである。なお、対語はワーク(''Work'')。元来日本ではリング内の真剣勝負を相撲用語に起因するガチンコ、もしくは'''セメント'''と呼ばれていたが、現在はシュートも類語として普及している。語句としては「シュートマッチ(セメントマッチ)」「シュート(セメント)を仕掛ける」などが一般的用法である。
選手の格やマッチメイカーによって試合の勝敗をあらかじめ決めることなく、両者の実力によって決着を着けることの意であり、この言葉は佐山聡が創設した総合格闘技である修斗の由来となっている。
この隠語の発祥の地であるアメリカでは、リング内の真剣勝負のみならず、リング外でのストーリー破りもシュートと呼んでいる。日本ではリング内はガチンコ、リング外はシュートと呼んでいたが、リング内での真剣勝負もシュートと呼ばれる機会が増えている。
ただし、シュートという概念はそれ自体がアングルとして用いられることもあり、上記の試合についてそのような見方をする人も少なくない。このアングルをあたかもシュートであるかのように見せる手法は、海外では「'''ワークド・シュート'''(''Worked shoot'')」と呼ばれストーリーを盛り上げる演出としてポピュラーなもののひとつである。
なお、シュートを行うレスラーを「'''シューター'''」と呼ぶことがあり、かつてダニー・ホッジが「キレると何をするかわからない」という悪癖から稀代のシューターとしてレスラーの間で恐れられていたことが有名。
セメントは「勝敗や試合内容を無視して、故意に相手に怪我をさせる行為」を指し、試合として成立しなくなる場合が多い。新日本プロレスで、木村健悟の稲妻レッグラリアートがブルーザー・ブロディの喉に入った時、セメントを仕掛けられたと思ったブロディがキレてセメントで対抗したため、その後タッグマッチでありながらブロディは一度もリングに上がらずに場外で木村にパイプイスやテーブルを投げつけ、チェーンや観客から奪ったカメラで殴るなど制裁を続けたため、収拾がつかなくなったことがある。
女子プロレスでは「'''ピストル'''」と呼ぶのが一般的である。これは全日本女子プロレス創始者である松永高司が提唱したものであり、「女子プロレス終わらない夢 全日本女子プロレス元会長 松永高司」によると全女の試合は基本的にピストルで行われていた。また、元全女のデビル雅美も「kamipro」146号誌上において「タイトル戦はシュートだった」と語っている。● 1976年6月26日のアントニオ猪木対モハメド・アリ
当時のプロボクシング世界ヘビー級王者であったモハメド・アリが「俺に挑戦する奴はいないのか。相手はレスラーでも誰でもいい」というリップサービスを行い、それに猪木が呼応したことに端を発する史上稀にみるシュート事件。後日実現した試合では双方が終始相手のスタイルに付き合わず、「世紀の凡戦」と痛烈な酷評を浴びた。
しかし近年になって、事前に交わされた契約交渉の段階から既に激しい摩擦があったことが関係者の口から明らかになっている。また、試合中猪木に執拗に脚部を蹴り続けられたアリは血栓症を発症、帰国後治療のため入院を余儀なくされた。
結果としてこの対戦によって猪木は多額の負債を背負うことになり、アリは前述の血栓症が原因ともいわれる体調不良からスケジュールを狂わせるなど、両者共に決して実り多きものとはならなかった。
● 1976年10月9日のアントニオ猪木対パク・ソン
● 1976年12月12日のアントニオ猪木対アクラム・ペールワン
アントニオ猪木が行ったパキスタン遠征(前述のアリ戦で背負った多額の負債返済のためといわれている)で起きた、当地で英雄と称えられていたレスラー、アクラム・ペールワンとの対戦とそれに纏わる事件。全くのノールール・マッチであったとされ、それについては当時猪木に同行した藤原喜明やミスター高橋など複数の関係者が明言している。なお、この「ノールール勧告」は試合の数時間前に初めてペールワン陣営から突き付けられたという。単なる海外でのプロレス興行と思い込んでいた猪木陣営にとっては、この一方的な「潰し予告」ともいえる要求は全く不測の事態だった。
試合は両者が噛み付きや目突き(ペールワンは片目を失明したといわれている)などを応酬する凄惨なものになり、最終的には猪木がペールワンの腕をアームロックで脱臼させ勝利を収めた。勝利の瞬間、猪木が「折ったぞー!」と雄叫びをあげたというエピソードは有名。このことについてミスター高橋は自著の中で「リング上で叫ぶ猪木の表情は、すでに正気のものではなかった」と述懐している。また、猪木のセコンドについていた藤原の弁によれば、ペールワンの勝利を信じて熱狂的な声援を送っていた観衆が一気に静まり返るのを感じ「もう俺たちは日本に帰れない」と絶望さえ覚えたという。
試合後の猪木は憔悴しきった様子で「あいつ、(アームロックが極まっても)参ったしないから…」と語り、終始表情は曇ったままであった。このペールワン戦で猪木が負ったトラウマは非常に根深かったといわれており、後年の路線変更の遠因になったとの評もある。
なお猪木は引退後、この試合が収録されたDVDの中で当時のことを自ら詳しく解説している。ペールワンの腕を脱臼させたことについては、「僕はレフェリーに『折れるぞ。試合は終わりだ』と言ったんですが試合を止めないし、相手(ペールワン)もギブアップしない。それで思い切って力を入れたら、腕がバキバキと音を立てて折れてしまった」と述べており、あくまで事態を終結させるための最終手段だったという。その一方でペールワンに仕掛けた目突きのように見える行為は「フェイスロックを極める際の流れがそう見えるだけで、反則(目突き)ではない」としている。
● 1986年4月29日の前田日明対アンドレ・ザ・ジャイアント
UWFスタイルの確立によるムーブメントに危機感を覚えた新日本プロレスが、当時UWFの旗手とされた前田にアンドレとのセメントマッチを強行した事件。試合開始からアンドレは全くプロレスに付き合わず、その様子に異変を感じた前田も試合途中から距離をとっての打撃に終始(この時点で前田はアンドレのセコンドに付いていた若松市政に「若松さん、(アンドレに止めるよう)言ってくださいよ」と言っていたといわれている)。なお、この試合中に前田がリングサイドにいる先輩レスラーに「やっちゃっていいんですか」と尋ねたという有名な逸話があるが、前田本人の弁によれば「本気でやれば必ずどちらかが大怪我をする。それでもいいのか」と問いかけたところ黙殺され、逆に「早くやれ。セメントだぞ」とけしかけられたことに対しての言葉だったという。
最終的にアンドレはリングに寝転がったまま起き上がらなくなり、困惑した前田がセコンドに対し事情の説明を求めるという不可解な結末に終わった。シュートマッチ強行への経緯については諸説あり、当時の関係者の証言も断片的なものに留まっているため現在も真相は不明。当時マッチメイクを担当していたミスター高橋も自著の中で、特に新日サイドから指示されたことはなく、試合後もアンドレは何も答えてくれず、高橋自身困惑していたことを記している。ただし、何も知らされていなかった前田に対し、アンドレは事前にシュートマッチであることを了承していたことは確実と思われる。それを裏付けるかのように、アンドレは晩年のインタビューで「あの試合は、前田がああいう試合が好きだと聞いていたので、あいつに合わせただけだよ」と答えていた。なお、この試合の様子はTV収録大会にもかかわらず東海地区など一部の地方局で放映されただけで、内容が危険という理由でテレビ朝日系列局による全国放送はされていない。その後しばらくの間いわゆる「お蔵入り」の状態が続いていたが、近年になってDVD化されるなどようやく封印が解かれた。
● 1987年7月18日の神取忍対ジャッキー佐藤
ジャパン女子プロレスでプロレスデビュー間もない頃の神取忍が、同団体のエース格だったジャッキー佐藤との試合でシュートを仕掛けた事件。ファンの間では「伝説の喧嘩マッチ」とも呼ばれる、女子プロレス史上稀にみるシュート事件である。諸説あるが、両者の意見の食い違いが主な原因とされている。なお、この試合前に神取は「今日はジャッキーさんを30秒で倒す」「あっという間に終わらせたらお客さんに申し訳ないから、初めの5分はジャッキーさんに合わせる。だから5分30秒かな」とシュート予告ともとれる発言をしていた。
試合開始から数分後、神取が突然ジャッキーの顔面を次々と殴打し始め、ジャッキーは防戦一方に陥る。この際、異変に気付いたリングサイドのレスラーたちから「神取、何をやってるんだ」「やめろ」と怒声が上がったという。さらに神取は戦意喪失状態のジャッキーをアキレス腱固めや袈裟固めなどで執拗に攻め立て、最後はチキンウィングアームロックでギブアップを奪った。なお、これはジャッキーが喫した生涯唯一のギブアップ負けである。後に神取はこの際のことを「関節技は全部本気で極めにいった」と明言している。試合終了後のジャッキーの顔面は無残に腫れ上がり、極められた腕は脱臼していた。ジャッキーはこの試合から程なくして引退しており、神取戦における惨敗が要因のひとつという評もある。
後年、神取はインタビュー内でこの試合について「ジャッキーさんの心を折るために仕掛けた」と語る一方、喧嘩マッチとして語り継がれていることに関しては「あの試合は喧嘩じゃない」と述べている。
● 1991年の北尾光司対ジョン・テンタ
SWS神戸大会で北尾が全くテンタと手を合わせようとせず、目潰しの構えをとるなどして威嚇した事件。結果としては何事も起きず未遂に終わっている(裁定は北尾の反則負け)。だがその直後に解説席のマイクを奪った北尾が「この八百長野郎!八百長ばっかりやりやがって!」「お前ら!こんな試合見て面白いのか!」と度を超えた暴言を発し、それがテレビ生中継で全国にそのまま放映されたため、すぐにプロレス業界全体を巻き込む大問題へと発展した。なお北尾はこの試合を最後にSWSを解雇されている。この事件から数年後にWARで再戦が行われたが、総合格闘家に転向していた(当時PRIDEにも参戦している)北尾は終始いきり立った様子で試合を進め、格闘技然とした展開となってしまい呆気ない幕切れとなった。
● 1999年1月4日の小川直也対橋本真也
ライバル抗争を繰り広げられていた橋本真也に対し、小川直也が執拗な顔面へのパンチ(プロレスで顔面パンチは反則行為である)や、倒れた橋本の頭部を思い切り踏みつけるなど常軌を逸した攻撃を繰り返した事件。橋本も小川に対して反則技である脊椎への攻撃を仕掛けるなど報復を行った。
一方的に攻撃を受け続けた橋本は完全KO(裁定は無効試合)され、直後に小川が挑発的な言動を行ったことから場内は騒然となった。これにより試合後、両選手のセコンド同士による大規模な乱闘が発生。小川のセコンドをしていた村上和成は、飯塚高史に顔面を踏まれ一か月入院するほどの大怪我を負う。さらに事態は紛糾し、当時の現場監督の長州力が小川に詰め寄り怒声を上げる姿がテレビで放映された。この際に長州は小川に対して「これ(シュートで橋本を潰す行為)がお前のやり方か!」と繰り返した。また、橋本がKOされた際にゴングを鳴らしたのはリングアナの田中秀和の独断によるものである(「何とか収拾を付けたかった」と本人が後に語っている)。
なお橋本は試合後の検査で鼻骨を骨折していたことが判明、長期離脱を余儀なくされた。
● 2000年8月5日のプロレスリング・ノア旗揚げ戦での垣原賢人対大森隆男
垣原賢人がオープンフィンガーグローブを着用して登場、対戦相手の大森隆男を一方的に叩きのめした事件。諸説あるが、多くのプロレスファンはシュートと認識しているとされる。直後に垣原はノアを退団してしまい、原因や経緯など多くが不明のままである。なお垣原が引退直前にインタビューで語ったところによれば、試合後大森から「悪いけど僕にはああいうのは出来ない」と言われたことに自信を失い、引退を考えるようになったという。
● 2004年11月4日ダニエル・ピューダー対カート・アングル
2004年10月、WWEの第4回タフイナフチャレンジで優勝し、WWEとの契約を獲得したダニエル・ピューダーは、11月4日、スマックダウンにおいてカート・アングルと対戦した。この際ピューダーはアングルにシュートを仕掛け、ガードポジションからのキーロック(ダブルリストロック)を極めるも、異変に気づいたレフェリーがピューダーの肩がマットに着いていると判断し素早く3カウント、ピューダーのピンフォール負けを宣言した。ピューダーは2005年9月、WWEのコスト削減を理由に解雇され、総合格闘家へ転向した。
八百長
ケーフェイ
カール・ゴッチ - 日本プロレス界のシュートの概念に強く影響を与えた人物
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