'''ポルノグラフィ'''(英語:'''Pornography''')とは、ウェブスターの「国際辞典」は、「性的興奮を起こさせることを目的としたエロチックな行為を(文章または絵などで)表現したもの」と定義している。ギリシア語の πορνογραφια (pornographia)(『オックスフォード英語辞典』によれば、writing of harlotsの意)が語源であるという説があり、直訳すると売春婦の行為に関する文章や絵という意味になる。しかし、実際には1850年前後にイギリスで作られた言葉であるといわれている(『オックスフォード英語辞典』による用例の文献初出は1857年のものである)。日本では略語ないし俗語で、'''ポルノ'''とも言われる。
語源とされている言葉からも分かるように当初は小説などに対する呼称であったが、その後意味が大幅に拡大し、性的興奮を起こさせることを目的に表現したものであれば写真、映画、ビデオなど媒体を問わずポルノと総称される。
1968年、アメリカのジョンソン大統領は「ワイセツとポルノに関する諮問委員会」を設置して、それにポルノ解禁問題をはかった。
性は本来人間の根源にかかわる問題であり、哲学的探求や文学、芸術などの対象になり得るものであり、その表現形態には性的興奮を起こさせることを目的としたポルノもある。一方、性的興奮を起こさせる表現のうち、更に、通常人の羞恥心を害し、かつ、善良な性的道義観念に反するものは、わいせつ表現として、法的規制がかけられている。しかしながら、わいせつな表現であっても、思想性や芸術性の高い文書については規制の対象から除外されるという議論が沸き起こることが少なくない(わいせつ参照)。日本では、わいせつな小説として伊藤整翻訳のD・H・ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』や澁澤龍彦翻訳のマルキ・ド・サド『悪徳の栄え』が、映画として大島渚『愛のコリーダ』が猥褻性をめぐり裁判にまで発展した。ある人に対しては性的興奮を喚起させる図像でも異なる性的嗜好を持った別の人に対してはまったくそのような効果はない、というようにポルノグラフィとそうでないものの境界は非常に曖昧であるが、おおむね「性的興奮・刺激を誘発する」「性描写を含む」「自慰行為に利用される」といった特徴を持ったものをポルノグラフィと考えるのが一般的である。他方、フェミニズムにおいては、後述()するように女性差別の問題と関連付けて論じられている。このような観点からは、例えば電車などの公共空間におかれた週刊誌の広告のグラビアなども女性身体を一方的に性的な客体として描く女性差別的な表現としてポルノグラフィとしてみなされることがある('''ポルノ文化'''という言葉が用いられることもある)。リン・ハントによれば、前近代のヨーロッパ社会では、ポルノは政治的・社会的な批判を頻繁に含んでいた。代表的な形態は大きく分けて二つあり、ひとつには特定の個人や党派・集団への直接的な中傷である。国王やその愛人、有力政治家など国家の要人を批判する目的で、彼らの痴態を描いた風刺詩、版画などを流通させてその権威や評判を貶める内容である。マザラン(いわゆるマザリナード)やチャールズ2世に対する風刺は、政治的動向にポルノが一定の役割を果たした例として有名である。もうひとつは、18世紀に啓蒙主義が思想界を覆い始めるのを背景に流行した、従来の価値観を相対化ないし否定する内容を含むタイプである。自由思想を根拠に既存の体制を問題視し、教会・国家の腐敗を猥雑な表現方法で貶めるもので、聖職者の性的堕落の様なテーマが好んで描かれた。サドの一連の作品もこの文脈の中に置くことが出来よう。こうした反体制的要素を危険視した教会・国家は早い時期から検閲を適用したが大きな効果は得られなかった。特にフランスではポルノの流通を通して、啓蒙主義のエートスが普及した可能性が示唆されている。18世紀末のフランス革命では革命派を中心にポルノによる中傷攻撃が氾濫し、国王夫妻を始め旧支配層の権威を著しく低下させて革命劇の成功に大きく貢献した。しかし19世紀に入り、ジャーナリズムが市民的な公共性を重んじる傾向を強め、個人の私的領域への露骨な攻撃を控え始めるにつれ、ポルノと政治的・社会的批判との直接的な関係は弱まっていった。多くの場合、ポルノグラフィは女性を非人格的な「モノ」として扱い、女性に対する暴力を肯定的に描いているため、フェミニズム(特にラディカル・フェミニズム)の立場からは、ポルノグラフィは男性優位的な価値観を反映したものでありその存在が性差別の構造を再生産するものであるとして(売買春・ミス・コンテストと並んで)批判されることがある。代表的な論者として、「ポルノは理論でレイプが実践」というスローガンで知られるロビン・モーガンをはじめとしてキャサリン・マッキノンやアンドレア・ドウォーキンなどが挙げられる。ドウォーキンはそもそも性行為自体が「男性が女性を支配する」という男性優位的な構造を持っているとし、小倉千加子のようにすべての性行為は本質的には強姦であるとする立場も存在する。
グロリア・スタイネムは、性描写を含む表現物の中でも女性差別的な価値観に基づくポルノグラフィと男女平等で友好的な性愛を追求するエロティカを区別し、前者を批判しながらもエロティカという形で女性が性差別的な価値観を押し付けられることなく(広い意味での)ポルノグラフィを楽しむことができる可能性を提示した。
ポルノグラフィと現実での事象の関係として、性犯罪・性被害を誘発するという批判がある。これについては、逆に代償としてポルノグラフィが利用されればカタルシスによって現実での性犯罪が抑制されるという見方もあり、実証的な研究論文などでもどちらの立場をとるものも存在して明確な結論は出ていない。フェミニズムの立場からは、現実の性被害を喚起することをポルノ批判の中心とすることは多くなく、ポルノグラフィの製作現場において被写体となる女性が性被害を受けることがしばしばあることや、不快感のある人に対してポルノグラフィを強制的に見せ付けるという形でのセクシャルハラスメントを誘発すること[セクシャルハラスメントも参照。]が非難の対象となることがある。ポルノグラフィは社会秩序を乱しかねないため規制・取締りを行うべきである道徳主義的な立場からの主張が存在する一方、後述するようにリバタリアニズム・リベラリズムの立場からはポルノ規制は表現の自由に対する侵害であると批判される。しかしマッキノンは、そういった論争はどちらの立場にせよ男性の利権の奪い合いに過ぎず、前述のようにポルノグラフィが女性の権利を侵害しているとの立場から規制運動を行った。マッキノンは、ポルノグラフィは単なる「表現」ではなく女性が男性に隷属する構造を構築する「行為」であるため、表現の自由による擁護の対象にはならないと主張している。
マッキノンは実際にミネアポリス・インディアナポリスでポルノ規制の条例を通過させており、その過程では前述の道徳主義的な立場からポルノ規制を目指すグループと手を結ぶこともあった。
日本におけるポルノグラフィ批判運動としては、売買春・猥褻物のように性の商品化は青少年に有害であるから母親としての責任からそれらを批判する運動(守如子は「母親運動」と呼んでいる)が頻繁に起こっているほか、それと一線を画するものとして「行動する女たちの会」による運動がある。「行動する女たちの会」は、主に公共の空間にみられる女性身体を性的対象として描いたポルノ的表現の氾濫などへの批判を行いながらも、道徳的な観点からポルノグラフィを問題視するわけではないこと、また国家による法的規制を求めているわけでもないことを強調した。1990年代に有害コミック(青少年向けの過激な性描写を含む漫画類)の規制運動[有害コミック騒動を参照。]がおこったとき、「母親運動」側は規制を推進すべきとの立場であったが、「行動する女たちの会」はこれに対して異議を申し立てた。マッキノンらフェミニストから前述したような強烈なポルノグラフィ批判がある一方で、フェミニストの中にも既存の性秩序への破壊力をポルノに認め、ポルノ一般に寛容な立場もある。特にその根拠となるのは、ポルノグラフィの規制は公権力の介入によって表現の自由が制限されることを意味するため問題があるというもので、前述したように猥褻表現とそうでないものの境界をどう判断するかということも問題視される。スタイネムのようにポルノグラフィとエロティカを区別して前者のみを規制すべきだと考える場合でも、女性差別的表現とそうでないものの区別をどうするかという問題が発生することになる。このほか、規制すべきポルノグラフィからエロティカを区別して排除する考え方は、友好的な性的関係こそが女性の望む性愛であるという価値観を押し付ける危険性があり、女性の性的嗜好の多様性を否定するものであるという批判もある。
ポルノ規制派が主張する「現実(の性犯罪・性被害)とポルノグラフィの関係」については、ポルノグラフィが現実の性犯罪を誘発しているという実証的な根拠に乏しいという批判や、ジュディス・バトラーや赤川学のようにポルノグラフィは現実とは異なる「別種の現実」あるいは「代償的幻想」であるという批判がある。
ラディカル・フェミニズムの立場からのポルノ規制の前提となる「ポルノグラフィは男性優位的な社会構造の反映である」というテーゼについては、アンソニー・ギデンズらはむしろ男性社会の権威が低下しているからこそそれを補強するためにポルノグラフィが必要とされているのであると論じている。
堀あきこや守如子は、従来のポルノ批判は男性向けのポルノグラフィばかりを想定して女性向けのポルノグラフィの存在を黙殺しているのだとして、レディースコミック・ティーンズラブ・ボーイズラブ(やおい)といった形で女性向けのポルノグラフィ表現が定着しておりそれらには(保守的な道徳観によって抑圧されてきた)「女性が性的な欲望を持つこと」が肯定されるのだと論じている。ただし、堀あきこは男性向けのポルノグラフィと女性向けのポルノグラフィは異なる価値観に沿っているとしており、この点については守如子と立場が異なる。女性向けのポルノグラフィとしては、レディースコミック・ティーンズラブ・ボーイズラブといったジャンルがある。ボーイズラブは男性同士の同性愛を、レディースコミックやティーンズラブでは男女間の異性愛がメインとして描かれているが、経緯としてはボーイズラブ系の作家に「男同士の恋愛関係を男女の関係を置き換えて作品を執筆してほしい」と依頼する形でレディースコミックやティーンズラブというジャンルが誕生している。
男性向けのポルノグラフィには実写のエロ本・アダルトビデオを含めた多様なジャンルが存在するが、女性向けのポルノグラフィは実写ではなくマンガの形態をとることが多い。これを守如子は、「流通形態」「読者の安心」の2つの観点から次のように説明している。まず第一に、例えばレンタルビデオ店のアダルトコーナーは多くの場合カーテンなどの向こう側に設置されており女性が入りにくい雰囲気となっているが、マンガの場合は売り場が男性向け・女性向けと分かれていることが多いため、女性がポルノグラフィを買う抵抗感が少なくて済むと考えられる。第二に、女性が実写のポルノグラフィを鑑賞する場合、被写体となっている女優が実際には撮影時などに虐待を受けるなどしているのではないかという不安を覚えてしまう場合があるが、漫画であればその心配はないということが挙げられる。ただし、日本国外に目を向けると、アメリカでは男性のヌードグラビアを中心とした女性向けのポルノ雑誌が流通しており、実写の女性向けポルノグラフィが皆無なわけではない。
描写の内容として、男性向けのポルノグラフィでは基本的には女性身体をエロティックに表現することに重点が置かれているが、女性向けのレディースコミックなどで男性身体の描写に力点がおかれているかというとそうではなく、やはり性行為のシーンでは女性身体の描写がメインとなっている。
なお、本来は女性がポルノグラフィを楽しむことはきわめて例外的であるとする立場もあり、マッキノンは日本でレディースコミックが女性に読まれていることについて、(自分は日本文化には詳しくないと前置きした上で)それは幼少期に性的虐待を受けたケースなどごくわずかではないかと発言している。
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近親相姦ポルノ堀あきこ 『欲望のコード―マンガにみるセクシュアリティの男女差』 臨川書店、2009年。ISBN 978-4653040187。
守如子 『女はポルノを読む―女性の性欲とフェミニズム』 青弓社、2010年。ISBN 978-4787233103。 児童ポルノ関連法(児童買春・児童ポルノ禁止法)
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出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』