'''ミサ'''はカトリック教会でおこなわれる'''聖体祭儀'''のこと。司祭が執り行い信徒が参加する、カトリック教会でもっとも重要な典礼儀式である。日本のカトリック教会においては、ミサのことを礼儀正しく「'''御ミサ'''(ごみさ)」と呼ぶ傾向がある。
日本ではキリスト教の公祈祷(礼拝)全般を「ミサ」と呼ぶ事例が散見されるが、「ミサ」とは本項で詳述するカトリック教会の典礼儀式を指す語彙であり、キリスト教の礼拝一般をまとめて「ミサ」と呼ぶのは誤りである。
カトリック教会における聖体祭儀は、正教会では'''聖体礼儀'''、聖公会では'''聖餐式'''に相当する。
古代以来1960年代までラテン典礼におけるミサはすべてラテン語でおこなわれていたが、第2バチカン公会議以降の典礼改革により各国語でおこなわれることになった。「ミサ」という名称は式の最後のラテン語の言葉「Ite, missa est」(Ite 行きなさい、missa est 派遣である)というフレーズの中の語に由来している。
様式は世界共通だが、カトリック教会でも東方典礼カトリック教会においては、ビザンチン式などラテン典礼と異なるミサが行われることがあり、その場合の詳細な式次第などは後述と異なる場合がある。本項ではカトリック教会のラテン典礼を中心に詳述する。キリスト教はもともとユダヤ教の中から生まれたため、聖体祭儀(ミサ)もユダヤ教のシナゴーグでおこなわれていた礼拝の形式(聖書の朗読と説教、祈り)に、キリスト教徒がイエス・キリストの最後の晩餐を記念しておこなっていた聖体の典礼と会食が組み合わされて出来たものである。
ユダヤ教との関連において、トリエント公会議はその第22総会において、ミサ聖祭とは、旧約の種々のいけにえによって予型とされ、示されていた(創世記4・4;8・20;12・8;12・22;出エジプト記随所参照)善が実現し完成したものであり、新約のいけにえであるミサ聖祭は旧約のいけにえのすべてを含んでいるとする。トリエント公会議は、そのことを、次のようにユダヤ教のいけにえとミサ聖祭との関係について宣言した。
「使徒パウロによれば、旧約時代にはレビ族の司祭職は完全なものでなかったため、慈悲深い父である天主の計画によって、'''メルキセデクの位にひとしい他の司祭'''を立てる必要があった(創世記14・18;詩編109・4;ヘブライ7・11)。それがすなわち、私たちの主イエズス・キリストであって、キリストは「聖化すべきすべての人々を完全なもの」(ヘブライ10・14)にすることができた。・・・」
「イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげた旧約の過越(出エジプト記12・1以下)を祝った後、キリストは新しい過越の祭を制定した。キリストは自分がこの世から父の所に移る時、自分の血を流すことによってわれわれを救い、「闇の権力から救い出し、自分の国に移した」(コロサイ1・13)。キリストはその記念として、目に見えるしるしのもとに、教会において司祭たちによって自分をささげるのである。」
「清い供え物が、それを供える者の側からの欠点または罪悪によってけがされることができない。この供え物は、'''主がマラキア預言者を通じて予告したもの'''であり、諸国民の間で偉大な主の名に、主の名のためにささげられる(マラキア1・11参照)。使徒パウロもコリント人に書き送った手紙の中で、この供え物について述べている。すなわち、悪魔の食卓に列席してけがれた者は、主の食卓に列席することはできないと。食卓という時、パウロは祭壇をさしている(1コリント10・21参照)。この供え物は、'''自然と律法の時代には、種々のささげ物によって予型とされた'''(創世記4・4;8・20;12・8;12・22;出エジプト記随所参照)。この供え物は、'''昔のささげ物によって示されていた善の実現と完成であり、それらすべてを含んでいる'''。」
聖体祭儀には地方・時代においていくつかの形式が生まれたが(ミラノ典礼、アンティオキア典礼など)、通常ミサというときはローマ典礼をあらわす。そもそもミサという語自体がローマ典礼のラテン語典礼文に由来する。ローマ典礼はバチカンの布教省の配下にある司教区で(つまりは世界中のほとんどで)行われている。日本もローマ典礼である。
ミサは基本的に聖堂や教会堂においておこなわれるが、特別な場合は屋外や一般の室内でおこなわれることもある。カトリックでは司祭は毎日必ずミサを捧げなければならないため、ミサは毎日執り行われている。ミサを執行することを「ミサをたてる」ともいう。司祭が一人でミサをたてることもあるが、通常はミサに参加する(「与(あずか)る」と表現)信徒(会衆)と共におこなわれる。信徒は特に毎日曜日(主日という)といくつかの日曜日以外の祭日のミサにあずかることがのぞましいとされている。
なお、従来カトリック信者は「御ミサ(ごミサ)」と言うことが多かった。
ミサにはすべてのミサに共通の部分と、そのミサの目的や日時によって変わる部分がある。前者を通常文、後者を固有文という。
かつて20世紀半ばまではミサのおこなわれる時間がきびしく制限されており、クリスマスと復活祭の前夜を除いて午後一時から夜明けの一時間前以前までおこなうことができなかった。今ではこの制限は廃止されている。また、現代では土曜日の夕方以降におこなわれるミサも日曜日のミサとして扱うことができるため、日曜日にミサに参加できない信徒は、かわりに土曜日の夜のミサに参加することがある。信徒の便宜をはかるため、多くの教会では土曜日の夜にもミサがおこなわれている。
また以前はミサの前は日付が変わってからミサまでの禁食が義務付けられていたが、現在ではミサの1時間前からの禁食に緩和されている。ただし水・薬は禁食の対象ではない。
カトリック教会の典礼は1960年代の第2バチカン公会議を反映して改革され、典礼言語としてラテン語以外にそれぞれの国や地域の言語を使うことができるようになった。日本でも、昭和30年代まで、カトリック教会の礼拝はラテン語で行われていたのである。なお、この改革以前の、トリエント・ミサとよばれる礼拝形式から、英国教会の聖餐式やルーテル教会の礼拝が生まれた。儀式を外面から眺める限り、これらの教会の礼拝はよく似ている。
かつてミサは司祭一人であげ、信徒に背を向ける形で祭壇に向かっておこなわれていた(背面式)が、第2バチカン公会議以降の改革でミサ本来の意味が再検討され、数人の司祭によるミサの挙行(共同司式)もみとめられ、式自体も司祭が信徒に向かう形(対面式)でおこなわれるようになった。 トリエント公会議はその第22総会において次のようにミサ聖祭について宣言した。
「私たちの天主であり、主であるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、「一度で永久に」(ヘブライ10・14)父である天主に自分をささげて、救いのわざを完成した。しかしキリストの司祭職は死によって消去るものではなかったので(ヘブライ7・24、27)、敵の手に渡される夜(1コリント11・13)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に'''目に見えるいけにえ'''(visible sacrifice)を残したのである(人間のためにはこれが必要であった)(第1条)。これによって、'''十字架上で一度血を流してささげたものが表わされ、その記憶が世の終りまで続き'''(1コリント11・23以下)、'''その救いの力によってわれわれが毎日犯す罪が赦される'''のである。キリストは「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」(詩編109・4)であると宣言して、自分の体と血をパンとブドー酒の形色のもとに父である天主にささげた。そして、使徒たちを新約の司祭として制定し、パンとブドー酒の形色のもとに拝領するように自分の体と血を与えた。使徒たちとその後継者たる司祭職に、「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉で、それをささげるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。
イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげた旧約の過越(出エジプト記12・1以下)を祝った後、キリストは新しい過越の祭を制定した。キリストは自分がこの世から父の所に移る時、自分の血を流すことによってわれわれを救い、「闇の権力から救い出し、自分の国に・移した」(コロサイ1・13)。キリストはその記念として、目に見えるしるしのもとに、教会において司祭たちによって自分をささげるのである。」 トリエント公会議は言葉を続けてこう宣言する。
「ミサにおいて行われる'''この神的ないけにえの中に、十字架の祭壇上で血を流して自分自身を天主にささげた(ヘブライ9・27)その同じキリストが現存し、血を流さずに自分自身をささげている'''。したがって、聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、'''ミサ聖祭は真に罪の償いのいけにえである'''(this sacrifice is truly propritiatory)(第3条)と。」
「われわれが真心と正しい信仰、畏敬の念と痛悔と償いの心をもって天主に近づくならば、「適切な時に慈悲を受け、恩恵を見出すようになる」(ヘブライ4・16)であろう。なぜなら、このいけにえによってなだめられた主は、悔改めの恩恵とたまものを与え、どのように重い大罪さえも赦すからである。すなわち、(十字架のいけにえと祭壇のいけにえであるミサ聖祭とでは)'''いけにえは同一である'''。あの時自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげているからである。違うのはささげ方だけである。事実、'''この無血の供え物によって、十字架上の(流血の)ささげものの成果を非常に豊かに受けることができる'''。しかし、このいけにえ(ミサ)によって十字架上のいけにえが決して廃止されるのではない(第4条)。」
「そのため、このいけにえは、生きている者の罪や罰の赦しのため、または罪の償いのため、またはその他の必要のためだけでなく、使徒たちの伝承からも明らかなように、キリストの恩恵の状態で死んだが、まだ完全に清められていない霊魂のためにもささげられるのである(第3条)。」
そこでカトリック教会の公教要理では次のように、
「ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下に在し給うイエズス・キリストの御体と御血とを、聖父に献げる祭であります。 犠牲とは天主を最高の主として礼拝するために献物(ささげもの)をなすことであります。旧約の犠牲は牛、羊などを屠(ほふ)って之を献げることで、すべて新約の犠牲のかたどりでありました。新約の犠牲はイエズス・キリストが、十字架上に於て、御自ら御生命を献げ給うたことであります。ミサ聖祭はこの犠牲の継続であります。」
「ミサ聖祭と十字架上の犠牲とは、献げ方が違いますが、その実体に於ては全く同じであります。それは、イエズス・キリストが十字架上でなされたように、ミサ聖祭でも自ら御自身をお献げになるからであります。ただし、十字架上の犠牲と異り、ミサ聖祭では、イエズス・キリストは目に見えては御血を流さず、御死去にならず、司祭の手をもって御自身をお献げになるからであります。」
と教えている。カトリック教会はミサ聖祭の目的に次の4つを上げている。
●父である神を礼拝し、
●其の御恩を謝し、
●罪を贖い、
●御恵を求めるため
トリエント公会議は、ミサ聖祭が'''賛美と感謝'''のためのみならず、'''罪の償い'''のため、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の'''必要のため'''にささげられるとし、カノンと呼ばれる規定文により、次のように宣言して誤った主張を排斥(アナテマとする)している。
1条:「ミサにおいて真実のいけにえが父である神にささげられないとか、これをささげるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけである」と言う者は排斥される。
3条:ミサのいけにえは「ただ賛美と感謝のため」であるとか、あるいは「十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって罪の償いのためでない」とか、あるいは「拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の他の必要のためにささげられるべきでない」と言う者は排斥される。ミサの名前はミサの最後に司祭(或いは荘厳ミサの場合には助祭)が "Ite, missa est" と言うところから由来している。しかしこのミサの最後の言葉の意味については近年になって誤解されてきた。
ラテン語の文法を正確に理解するならば、この文章には、二人称複数(あなたたち)に対する命令形として Ite(行け)がまずあり、次に、三人称単数の女性を主語とした missa est (送られた)という過去形の命題が続いている。ラテン語の正確な意味は、決して「行きましょう、ミサを終わります」ではない。
聖トマス・アクイナスは、 missa est (送られた)の主語はいけにえ(hostia)であると断言している。まず「ミサ」という名称の由来を神学大全の中で次のように言っている。「このためにもミサと呼ばれている。その理由は、会衆が司祭を通して天主に祈りを送るように、司祭は天使を通して祈りを送るから、或いはキリストは私たちのために'''送られたいけにえ'''(hostia nobis missa)であるから。故に、ミサの終わりに、助祭は祝日に会衆にこう言う「行け、送られた(ite, Missa est)」と、すなわち、天主に受け入れられんがために、'''いけにえは'''天主に天使を通して送られた、との謂いである。」
また「ヴェディングハウゼンのリカルドへのミサの解説」の中では「諸聖人のためのミサの終わりに、「行け、送られた(ite, Missa est)という言葉を通して、あたかも「我々のために聖父によって'''いけにえは送られた'''、或いは我々によって聖父へと再び送られた、故に、かの安息に早く入るように急げ」と言われ、聖人達がそこにおいてすでに憩っているかの栄光へと我々は見いだされる。」と説明してる。
英語ではmassといい、ミサと言っても通じない。以下、ローマ典礼における現行のミサ式次第(ノヴス・オルド)を解説する。司祭が入堂し、祭壇についてミサを開始する。会衆がいる場合、ミサの初めには「入祭の歌」として聖歌が歌われることが多い。入祭の歌は義務ではないが、歌わない場合は入祭唱を唱えなければならない。はじめに司祭と信徒の間で挨拶がかわされ、初めの祈りが唱えられる。次に悔い改めの祈り、「主よ、あわれみたまえ」(キリエ)が唱えられ、待降節および四旬節以外の主日と祭日には「栄光唱」(グローリア)が唱えられる。次に「ことばの典礼」といわれる部分に入る。ここでは平日には二つ、主日と祝日には三つの聖書からの部分が朗読される。それらの朗読は第一朗読、第二朗読(主日と祝日のみ)、福音朗読といわれる。
第一朗読では通常、旧約聖書が読まれるが、復活節に限って『使徒言行録』か『ヨハネの黙示録』が朗読される。第二朗読は使徒の書簡おもにパウロの手紙が朗読される。第一朗読の後には、答唱詩編という先唱者と会衆による章句の繰り返しと詩編の朗読がおこなわれるが、通常のミサでは歌われることが多い。アレルヤ唱(四旬節は詠唱)のあとでおこなわれる福音朗読はその名前のとおり、福音書が朗読される。第一朗読、第二朗読は信徒が朗読することが多いが、福音朗読は司祭もしくは助祭がおこなうことになっている。福音朗読時、会衆は起立することになっている。現代の日本のほとんどのカトリック教会では『新共同訳聖書』が用いられている。
福音朗読に続いて、司祭(あるいは助祭)による説教がおこなわれる。説教では通常、その日の福音や聖書朗読の解説がされることが多い。主日と祭日には説教の後で「信仰宣言」がおこなわれる。
ミサの国語化以来、日本の教会は洗礼式に用いられる略式の信仰宣言を用いるか、ごくまれに文語訳のニケア・コンスタンチノープル信条(Credo)を用いてきたが、2004年に口語訳のニケア・コンスタンチノープル信条が司教団より公式に発表された。従来の使徒信条を唱えることもできるが、略式の信仰宣言は廃止された。
信仰宣言につづき、そのときに応じて意向で唱える共同祈願という祈りが唱えられる。ことばの典礼が終わると、ぶどう酒と水、「ホスチア」(聖体となる小麦粉を薄く焼いた食べ物)が祭壇へ準備される。(これを奉納という。)ここから始まる「感謝の典礼」はイエスの最後の晩餐に由来するものとされ、ミサの中心的部分である。次に司祭によって奉献文という祈りが唱えられ、会衆と共に『黙示録』に由来する賛美の祈り「聖なるかな(サンクトゥス)」が唱えられる。次に聖体変化がおこなわれる。ここでは司祭が、ぶどう酒とホスチアをとって、イエスが最後の晩餐で唱えた言葉を繰り返す。これによってホスチアとぶどう酒がイエスの体と血に変わるというのが伝統的なカトリック教会の教義であった。神学用語では「実体変化」(Transubstantiation)といわれ、これについては歴史上多くの議論がおこなわれてきた。
プロテスタント諸派では、宗教改革以降、ぶどう酒とホスチアが本当にイエスの体に変わるわけではなく、単なるシンボルにすぎないと考え、カトリック教会はトリエント公会議での議論によって改めてこれを否定、現代に至っている。
トリエント公会議によれば、「私たちの救い主キリストは、パンの形色の中にささげたのが自分の真の身体であると仰せられたので(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下、1コリント11・24以下参照)、天主の教会は変ることなく常に信じてきたことを、この聖なる公会議も繰返して宣言する。すなわち、'''パンとブドー酒の聖別によって、パンの実体はことごとく私たちの主キリストの実体となり、ブドー酒の実体はことごとくその血の実体に変化する'''。聖なるカトリック教会は、この変化を便宜上、適切に'''全実体変化'''と言い表わしている(第2条)。」
また、トリエント公会議は次のようにも宣言している。
「聖なる公会議は次のことを教え、簡単明瞭に表明する。尊敬すべき聖なる聖体の秘跡において、パンとブドー酒の聖別の後、まことの天主でありまことの人である私たちの主イエズス・キリストが、'''真に、現実に、実体的に'''(vere, realiter, substantialiter)、パンとブドー酒というかの可感覚的な形色のもとに含まれている。事実、私たちの救い主が自然な存在の仕方で、天において常に聖父の右に座しておられることと、しかしながら、われわれが言葉で表わすことはほとんど不可能ではあるが、天主には可能であることを信仰に照らされた認識によって把握することができ、また固く信じなければならない存在の仕方によって秘跡的に他の多くの場所にご自分の実体によって現存して私たちに臨在しておられることとは互いに矛盾しない。」
聖体の秘跡に関する規定として同じトリエント公会議は宣言している。これによれば、霊的な現存でもなく、宗教的しるしや象徴としての意味おいての現前でもなく、本当に、現実に、実体的に現存しているというカトリックの信仰を確認している。
「1条。聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの体と血がその霊魂と神性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、「この秘跡の中には、しるしまたは象徴として、または効力だけで含まれている」と言う者は排斥される。」
ただ、現代のカトリック教会は中世のカトリック教会のように、決して小麦粉のホスチアが物理的・科学的な次元でイエスの肉体に変わるという意味で捉えているわけではなく、あくまで霊的・宗教的な意味・次元での変化として捉えていることに注意してほしい。
何故なら、新しいミサはその初版の総則(1969年版)において次のようにミサを定義したからだ。「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」
新しいミサのこの定義によれば「私の名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる」というキリストの約束が、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現されるとされ、キリストの霊的現存、宗教的意味での現存、神秘的現存の約束が、このミサにおいて特に実現することになる。このようにしてキリストの'''霊的に臨在'''の約束がキリストの御聖体の秘蹟における現存、全く同じ次元に置かれるようになったからだ。
新しいミサの総則は「ミサの祭儀において、キリストはその名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、御言葉の中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される」(総則第7条)と言い、「パンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存する」ことは、あくまでも、キリストの霊的現存、宗教的意味での現存、神秘的現存の一つとされているからである。そこで、現代のカトリック教会は、新しいミサにおいて、もはやトリエント公会議の決議したようなキリストの聖体における真の現実の実体的な現存の意味では、聖体におけるキリストの現存を捉えていないと言えるだろう。福音書の中でイエスが弟子たちに教えたとされる「主の祈り」がとなえられ、司祭の祈願につづいて「平和の挨拶」という参加者同士のあいさつがおこなわれる。さらに「神の小羊(アニュス・デイ)」の祈りが続き、司祭は聖体を裂いて一部をぶどう酒に浸す。司祭が聖体を食べ、ぶどう酒を飲む。聖体を食べ、ぶどう酒を飲むことを聖体拝領という。司祭は続いて聖体を会衆に配り、会衆も聖体拝領をおこなう。通常は聖体のみだが、場合によっては会衆もぶどう酒を飲むこともある。聖体拝領が終わると、司祭が拝領後の祈りを唱えて交わりの儀がおわる。この場合の「交わり」というのは、神と人との交わり、参加者同士が同じ聖体を受けて交わるという意味である。拝領後の祈りのあと、会衆への連絡などがおこなわれることがある。続いて司祭の祝福とミサからの派遣がおこなわれる。ミサの終わりにも「閉祭の歌」として聖歌が歌われることが多い。司祭と会衆との間に交わされる最後の交唱でミサは終わりなので、閉祭の歌そのものは義務ではない。ミサに相当する公祈祷を正教会では聖体礼儀(せいたいれいぎ)、聖公会では聖餐式という。英語圏の正教会ではこれも「ミサ」と呼ばれることがあるが、ギリシャ語・ロシア語圏および日本正教会では、正教会の奉神礼である聖体礼儀を指して「ミサ」と呼ぶ事は皆無である。浪曲師・イエス玉川の独演会は「ミサ」と呼ばれる。
レクイエム
ミサ曲
トリエント・ミサ(旧典礼)
新しいミサ
黒ミサ
教派別のキリスト教用語一覧
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』