'''奴隷'''(どれい)とは、人間でありながら所有の客体すなわち所有物とされる者を言う。人間としての権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。
1948年に国連で採択された世界人権宣言では、奴隷制について次のように宣言している。奴隷はあらゆる地域、時代の文献からも広範にその存在が確認され、その様態もさまざまである。共通点は人間固有の人格(生命・自由)が否定され物的所有権の対象として取り扱われる点にある。人種差別、性差別、幼児売買、部落(部族)差別などは奴隷に固有のものではないが、多くの場合密接に関係していた。暴力と恐怖による支配が社会階層におよぶ場合農奴制や奴隷労働者の階級が形成された。風土・慣習・伝統の違いによる地域差はあるものの、有史以来、人が人を所有する奴隷制度は世界中で普遍的に見られた。戦争の勝者が捕虜や被征服民族を奴隷とすることは、古代には世界中で普通に行われた。そもそも、奴隷という階層がなければ立ち行かない社会構成であった。古代中国の殷では神への生贄に供するために奴隷が用いられた。日本でも弥生時代に生口がすでに存在した。また、日本に限らず、中華王朝の周辺部族が皇帝に朝貢するときには、生口を貢物として差し出すことも珍しくはなかった。
古代のある時期、奴隷が社会の主な労働力となっている体制を奴隷制と呼ぶ。この奴隷制は、唯物史観の発展段階論に於いて、原始共産制以降から発展し封建制へと繋がる段階とされる。奴隷は、農業・荷役・家事などの重労働に従事することが多かった。農業革命が達成された西洋諸国に於いては、土地の囲い込みによる農民(階級であり移動に制限があったため現在の観点では広義の農奴)の小作農化(賃労働化)が進んだ。続く、工業化による産業構造の変化から都市部の工場などでの労働力不足を補うため、農民の工員化が望まれた。天賦人権説を利用・流布することで、各国の中でその国の国民については階級制度が廃止され、農奴の解放が行われた。しかし、国外については、商品購買層ではない人々(他人種)に対し奴隷貿易が続けられた。新大陸においては、移民の賃金労働者が奴隷よりも安価な労働力となり、労働力不足も発生していたため、奴隷解放をして安価な賃金労働者に再編された。1949年に発効した国際連合の人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約などそれに準じる各国の法規によって奴隷制度やトラフィッキングは現在は禁止されている。しかし、工業化の進んでいない発展途上国では、商品経済に飲み込まれながらもその対価が払えない貧困層が絶えず生まれ続け、それを供給源とする奴隷売買が公然と行われている地域がある。また、先進国・発展途上国の別によらず、暴力等によって拘束して売買し、性産業に従事させる犯罪が後を絶たず、非合法の奴隷とみなされる。世界には今でも2700万人もの奴隷がいると言われている。古代のヨーロッパ(ギリシア・ローマなど)は、奴隷を必要とする社会体制であった。ただし今日想像されるような悲惨な境遇の奴隷ばかりでなく、家庭教師や秘書といった知的労働を行う奴隷もおり、その範囲は広い。古代ローマでは高い教育を受けた奴隷は極めて高額で売買され、そのため病気にでもなったら大変であるとして、非常に大切にされていた。また小規模な自作農も一人から数人の奴隷を所有しており、家族の一員のように大切に扱われ、主人が上座に奴隷を据えて酒を注ぐ事すらあった。もちろん、大規模な農園や鉱山で働く奴隷の待遇は酷いものであったと言われる。当時の奴隷の定義は、あくまで金銭で売買され職業選択の自由が無い事であり、その境遇は様々であった。奴隷の身分から解放され市民権を得る者もいれば、市民権を喪失して奴隷となる者もいた(例として、債権者は返済不能となった債務者自身を奴隷として売却し貸付金を回収することが認められていた)。奴隷と自由民は固定された階級ではなく、流動的なものであった。
中世ヨーロッパでは羊毛、皮革、毛皮、蜜蝋程度しか、オリエントに対して輸出できるものがなかったため、何世紀にもわたりヨーロッパ人の奴隷はヨーロッパのアジアへの主要な輸出商品の一つであった。キリスト教徒による大規模な奴隷狩りで捕らえられたスラブ人(「奴隷(スレイブ)」の語源)が、ジェノバの商人たちの手で黒海貿易により輸出されていた。ヴェネツィア(ギリシャ南部より人々をさらってきた)、フィレンツェ、トスカーナ地方の富の蓄積は奴隷売買によるところが大きかった。その一方で古代ほどには社会も奴隷に依存せず、ヨーロッパ内部での奴隷の使用は少なくなった。ただし当時のヨーロッパには、農奴と呼ばれる職業・居住地の自由を持たない半奴隷的な農民がいた。
15世紀から19世紀にかけて、アフリカ諸地域から輸出された黒人奴隷(奴隷貿易)は、主に南北アメリカ大陸で、プランテーション農業などの経済活動に、無償で従事させられた。今日我々が想像するような悲惨な奴隷のイメージは、この時代のものである。奴隷貿易に参加した国はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの5ヶ国である。奴隷商人たちは、ヨーロッパから安物のビー玉、火器(銃器)、木綿の工業製品をもってアフリカ・ギニア湾岸に到り、黒人奴隷と交換し、奴隷を南米ブラジルや西インド諸島で売り飛ばした。次にその金で土地の砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどの亜熱帯農産物をしこたま積んで、ヨーロッパに帰ってくるのである。奴隷貿易で最盛期を迎えるのは18世紀である。推計では16世紀は90万人、17世紀は300万人、18世紀は700万人、19世紀は約400万人が奴隷として売買されたといわれている。概算1500万人と言われているが、多数の奴隷船の一次記録の調査により、大西洋横断中の死亡率は13%程度であると判明していて、近年では最大でも1100万人程度とされている。ただし、アフリカにおいて、ヨーロッパの奴隷貿易業者の手に渡るまでの期間の死者、すなわち現地アフリカの勢力が奴隷狩り遠征その他の手段によってかき集めてから、ヨーロッパの業者に売られるまでの期間にどれだけの死者が出ていたかは全く分からない。
アメリカ大陸において民主主義の発展により市民が自由を得る一方で、人種差別と相まって奴隷の境遇が悲惨なものとなり、また奴隷は子孫に至るまで奴隷身分として固定されてしまい、自由民と奴隷の格差が顕著になったのである。アメリカ合衆国では、南北戦争の時代にリンカーン大統領(→奴隷解放宣言)によって、奴隷制度が廃止されたが、大半の黒人は1971年まで、「選挙権はあるが'''投票権がない'''」状態だったなど、政治的な権利の制限は長く続いた(公民権運動、外部リンク参照)。ただし、これは黒人解放運動の指導者達が、摩擦を招きやすい政治的要求は避け、まずは教育の機会確保と経済的地位を確保することを優先する方針だったためでもある。19世紀における奴隷解放運動の活動家にはフレデリック・ダグラスなどがいた。インドのヒンドゥー教のカースト制度で、シュードラを奴隷と訳すことがある。所有・売買の対象という意味では奴隷の定義から外れるが、他のカーストの下に置かれたことから奴隷の名があてられる。
古代中国に於いては殷は戦争奴隷を労働力・軍事力として利用していたとされ、中国に於ける奴隷制の時代とされる。また漢字の「民」の字源は奴隷の目を潰す様であるとされる。それ以降でも基本的に奴隷は存在していた。前漢の衛青は奴隷の身分から大将軍まで上り詰めた。
朝鮮では丙子胡乱で、清朝軍が李氏朝鮮を制圧した戦い際に、清朝軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京(瀋陽)の奴隷市場で売られた。
タイの歴史上では、'''タート'''と呼ばれる自由を拘束された身分があった。そのほとんどが、'''未切足タート'''と呼ばれる、少額の負債を負った者が債権者に労働などで負債を返済する形式の者であり、すべてがいわゆる奴隷的な身分というわけではなかった。しかし、一部には'''切足タート'''と呼ばれる多額の負債を負って奴隷身分となった者や、'''捕虜タート'''と言われる奴隷があり、これらは自由身分への復帰が非常に困難とされた。チャクリー王朝に入ってからラーマ1世によってこの切足タートや捕虜タートにも自由身分へ回復する事が制度的に可能になった。のちに、ラーマ5世のチャクリー改革によってタートの制度は廃止された。一説には、すでに縄文時代において奴隷制が存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口(奴隷)160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国の女王・卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、魏王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。
古墳時代に入ると、ヤマト王権によって部民制(べみんせい)が敷かれ、子代部(こしろのべ)、名代部(なしろのべ)、部曲(かきべ)などの私有民もしくは官有民が設けられた。部民制は、飛鳥時代の大化の改新によって、中国の唐帝国を模した律令制が導入されるまで続いた。日本の律令制度では、人口のおよそ5%弱が五色の賤とされ、いずれも官有または私有の財産とされた。そのうち、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は売買の対象とされた。この2つの奴婢身分は、公地公民の律令制度の解体と、荘園の拡大に伴い、平安時代前期から中期にかけて事実上消滅していった。907年の延喜格で正式に廃止されたとされる。五色の賎は、良民との結婚などに制限があったが、良民と同等または3分の1の口分田が班給されており、古代ヨーロッパなどと同じく、現代人が想像する奴隷とはやや異なる存在であった。
平安時代後期に、日本が中世へと移行すると、社会秩序の崩壊にしたがって人身売買が増加し、「勾引」(こういん)や「子取り」と称する略取も横行した。また、貨幣経済の発展に伴って、人身を担保とする融資も行われた。こうして、様々な事情で自由を失った人々が下人となり、主人に所有され、売買の対象になった。有名な『安寿と厨子王(山椒大夫)』の物語は、この時代を舞台としている。このように、中世には人身売買が産業として定着し、略取した人間を売る行為は「人売り」、仲買人は「人商人」(ひとあきびと)や「売買仲人」と呼ばれた。また、奴隷が主人から逃亡することは財産権の侵害と見なされ、これも「人勾引」と称された。
鎌倉時代に寛喜の飢饉と呼ばれる飢饉が発生した際に多くの人々が自身や妻子を身売りして社会問題となった。そのため、鎌倉幕府は1239年になって人身売買の禁止を命じるとともに例外として飢饉の際の人身売買とそれに伴う奴隷の発生は黙認する態度を示した(『吾妻鏡』延応元年4月13日・5月1日条)。その後、元帝国と高麗の連合軍が壱岐・対馬と九州北部に侵攻し(元寇)、文永の役では、捕らえられた日本人の婦女子およそ200人が、高麗王に奴隷として献上された。国内においては、鎌倉幕府や朝廷は、人身売買や勾引行為に対して、顔面に焼印を押す拷問刑を課したこともあった。しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴隷の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で奴隷狩りを行った。惣村社会では境界紛争の解決にしばしば下手人として奴隷を利用した。
いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は、主にポルトガル商人を通して世界中に輸出された。関白の豊臣秀吉は、バテレン追放令でこれを禁じた。他には、ヤスケという名のアフリカ系奴隷が、戦国大名の織田信長に宣教師から献上され、武士の身分を与えられ家来として仕えたとの記録が残っている。
江戸時代に勾引は死罪とされ、奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。また、前借金による児童や青少年の奴隷労働(年季奉公)も広く行われた。これらの奴隷的拘束は、明治維新による近代化の後も形を変えて根強く残った。1872年のマリア・ルーズ号事件をきっかけに、時の司法卿・江藤新平によって、芸娼妓解放令が太政官布告として発せられ、このような人身売買は法的には禁じられた。また、それより以前の1870年には、外国人への児童の売却を禁ずる太政官弁官布告が出された。
明治時代、島原・天草を中心とする地域から、日本女性の日本国外への「輸出」が大規模に発生した(からゆきさん)。これは、太平洋戦争の勃発によって、日本人の日本国外への渡航が制限されるまで続いた。
終戦後、連合国軍総司令部は、日本における奴隷階級の解放を宣言していたが、日本政府が日本には奴隷階級はないと反論した。ハチやアリなどの社会性昆虫にも、人間の奴隷制と非常によく似た社会的行動をとるものがある。サムライアリは強力な軍隊(兵隊アリ)を持つが、労働力(働きアリ)はなく、自分では女王蟻や幼虫の世話も、巣作りや餌集めもできない。そこでクロヤマアリの巣を襲撃し、蛹や働きアリを強奪して自分の巣に運び、巣を支える奴隷として死ぬまで労働させるのである。
エリック・ウィリアムズ『資本主義と奴隷制:経済史から見た黒人奴隷制の発生と崩壊』山本伸監訳、明石書店、2004年
エリック・ウィリアムズ『コロンブスからカストロまでI・II』川北稔訳、岩波書店、2000年
ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社
オルランド・パターソン『世界の奴隷制の歴史』明石書店
ジャイルズ・ミルトン『奴隷になったイギリス人の物語』アスペクト、2006年 ISBN 4-7572-1211-9 人身売買、奴隷貿易
奴隷制、農奴制
解放奴隷、マルーン
奴隷制度廃止運動
植民地
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社会進化論
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人種差別
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ブラッドリー効果
黒人霊歌
スピリチュアル
プランテーション・ソング黒人奴隷クンタの20年間 =「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=
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