'''ギリシャ共和国'''(ギリシャきょうわこく)、通称'''ギリシャ'''は、ヨーロッパの南東、バルカン半島最南端部に位置する共和制国家である。半島南部およびペロポネソス半島に加えエーゲ海を中心に存在するおよそ3,000もの島によって構成される。北は西からアルバニア、マケドニア共和国、ブルガリアと、東はトルコと国境を接している。本土の周囲は東にはエーゲ海、西はイオニア海、南は地中海に囲まれている。
ギリシャは地中海文明のルーツの一つであり、複数の文明の接点に位置する国としてヨーロッパ、アフリカ、アジアの歴史に大きな影響を与える。
現在のギリシャは国連、EUおよびNATOの加盟国である。1896年と2004年には首都アテネで近代オリンピックが開催された。正式名称はギリシャ語で (ラテン文字転写: 、読みは「エリニキ・ジモクラティア」)。通称は (同 、'''エラス'''。古典語では (同 、'''ヘッラス''')、または (同 、'''エラザ'''。古典語の対格形 (同 、ヘッラダ)に由来。なお正式名称の の部分は の形容詞形)。いずれもギリシャ神話に登場する民族の父祖ヘッレーンに由来するなど諸説あるが、正確な処は定かではない。
公式の英語表記は であるが、通称は が用いられる。
日本語による表記は'''ギリシャ共和国'''。通称'''ギリシャ'''。歴史・地理・人文系では'''ギリシア'''という表記もされるが、国会の制定法や外務省、およびギリシャの在日大使館のサイトではギリシャと表記される。漢字では「ヘラス」の音訳として「希臘」(繁体字: 、簡体字: )と表記され、「希」と略される(例えば、ギリシャ語を希語と書くなど)。ギリシャあるいはギリシアという名称は、ラテン語名のがポルトガル語でとなり、これが宣教師によって日本にもたらされ変容したとされる。こちらも由来についてはラテン民族と境を接していたギリシャ系民族の名、あるいはギリシャ神話の主神ゼウスとパンドーラーの息子の一人でギリシャ人の始祖となったグライコスに因むなど諸説あるが、正確なところは不明である。
また、中東の諸言語での呼称、例えばアラビア語の ( 、アル=ユーナーン)、ヘブライ語の ( 、イェヴァン)、トルコ語の Yunanistan (ユナニスタン)などは、全てイオニアに由来する。古代のギリシャはアテナイ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っており、言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体でありマケドニア王国に征服されるまで統一国家を形成することはなかった。政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返された。紀元前5世紀にアケメネス朝(ペルシア帝国)が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結び、これに勝利した(ペルシア戦争)。しかしその後アテナイを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟とでペロポネソス戦争が勃発し、ギリシャ全体が荒廃し勢力を失った。紀元前4世紀半ばにマケドニアのピリッポス2世がカイロネイアの戦いに勝利すると、ギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主としたコリント同盟に属することとなる。ギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍して長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させた。ペルシャの傭兵となったギリシャ人がいたが、彼らは裏切り者として奴隷にされた。
大王死後、マケドニアを支配したアンティゴノス朝と対抗。この時期にピュロス(エペイロス王)らが活躍した。やがてアカイア同盟を結成して共和政ローマと手を結ぶ。マケドニアの没落後はローマと対決したが、紀元前146年にローマ軍に敗北、コリントスの破壊と共にローマ属州アカエアとされた。古代ギリシアは民主主義の原点であった。現在のギリシャ人は後世に主にバルカン半島北部から南下してきた人々、ラテン人、スラヴ人、アルバニア人等との混血、古くからは南のアラブ人、エジプト人、東のトルコ人などとも混血が進んでいる。現在と当時ではその人種的な構成等は異なっていると言われることもあるが、ヨーロッパにおいて古代から純粋な血統を保持している民族などというものはなく、ギリシャ人もまたその例に漏れないだけである。395年にローマ帝国が東西に分裂したのちは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属した。
この時代のギリシャについて、日本では「東ローマ帝国の支配」と表現する書籍が多いが、7世紀以降の東ローマ帝国はギリシャ語を公用語とし、皇帝をはじめとする支配階層もギリシャ人が中心となっていったため、そうした表現はじつは妥当性を欠いている。現代ギリシャにおいても、東ローマ帝国はギリシャ民族の歴史の一部と捉えられている。なお、東ローマ帝国を「ギリシャ化したローマ帝国」と捉える研究者もいる(ギリシャでは自らを「ローマ人」と呼ぶことがあるという)。ただ、東ローマ帝国の中心地はアナトリア・トラキア・マケドニアであり、現在のギリシャに当たる部分は、中央のコンスタンティノポリスからは辺境地域と見なされていた。
1204年に第4回十字軍によってコンスタンティノポリスが占領されて東ローマ帝国は崩壊し、ギリシャにも十字軍が侵入してきた。12世紀末のコムネノス王朝末期以降東ローマ帝国は内部崩壊を起こして国政が混乱していたため、ヨーロッパ側に住むギリシャ人は十字軍を混乱を収め、安定をもたらすものとして歓迎した。このため、アテネ公国などの多くの十字軍国家が成立した(十字軍に抵抗したのは裕福なコリントスのみ)。他には東ローマの亡命政権であるエピロス専制侯国や、ブルガリア帝国、セルビア王国、また都市国家ヴェネツィアなどが割拠するようになった。
アナトリアに逃れたギリシャ系のニカイア帝国により1261年に東ローマ帝国は復活したが、国力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついて14世紀以降はイスラム王朝のオスマン帝国が勢力を伸張させていった。1453年、東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。オスマン帝国はコンスタンティノポリスに遷都し、以後400年近くオスマン帝国の統治が続いた。オデッセイにおいて創設された秘密組織フィリキ・エテリアを中心として、1821年オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、ギリシャ独立戦争が始まった。エジプトの助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、英・仏・露が介入、1829年、アドリアノープル条約によってギリシャ独立が承認された。翌1830年、バイエルン王国の王子オットーをオソン1世として国王に据えギリシャ王国として独立し、東ローマ帝国滅亡以来約380年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。
その後は汎ギリシャ主義(メガリ・イデア)を標榜し、1897年にはトルコに侵攻(希土戦争)し敗北するも、第一次世界大戦直前の1912年から1913年にはバルカン戦争に参戦し、クレタ島をトルコから奪取した。
1919年のパリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど反人種差別を表明した。1919年~1922年にセーブル条約を押し付けるため、ギリシャ系住民保護を名目にアナトリアに侵攻したが、(希土戦争)ケマル・アタテュルクが率いるトルコ軍に敗退した。1924年にクーデターにより共和制となるが、1935年には王政が復活した。
第二次世界大戦ではナチス・ドイツおよびイタリア、ブルガリアの侵攻にあい王室と政府はイギリスに亡命し、ギリシャ本土は1945年までドイツ・イタリア・ブルガリア3国による分割占領状態であった。
大戦中には占領軍に対するレジスタンス運動では活動を主導した共産主義左派とイギリスの亡命政府に支援された右派が連携をとっていたが、第二次大戦が終結し亡命政府が帰還した後対立が起きた。1946年にはソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が「共産主義者民主主義軍」というゲリラ部隊を組織するが、戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が保守右派政府の全面的な支援に乗り出したことと(マーシャル・プラン)、1948年以降ユーゴスラビアとソ連が対立し、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したので、ユーゴスラビアからの援助が失われ、ギリシャ内戦は1949年に共産主義勢力の敗北によって終結した。1950年に行われた総選挙の結果保守連立政権が発足するが政局は安定せず、翌年1951年に選挙制度を最大与党に有利に改正して行われた選挙によってようやく政局は安定し、1952年に北大西洋条約機構(NATO)へ加盟、1953年に隣国のユーゴスラビア及びトルコとの間に三国親善条約と同盟条約が結ばれ、外交的にもようやくの安定をみた。
1950年代の後半になると、キプロスを巡ってトルコとの対立が激化するが、ギリシャ自体は順調な経済成長を続け、1951年から1964年の間に国民平均所得はほぼ4倍になった。
国王と対立した首相コンスタンディノス・カラマンリスの辞任をきっかけに総選挙が行われ、中道勢力と左派勢力が躍進、一旦は中道連合(EK)を率いるゲオルギオス・パパンドレウが首相に任命されるが、他党との連立を拒んだパパンドレウは再び総選挙を行い、1964年、中道連合(EK)は過半数を獲得した。パパンドレウ政権は教育制度改革等の内政面で功績を挙げるが、軍の制度改革に失敗してパパンドレウは国王コンスタンティノス2世によって首相辞任を要求され、国王はアメリカ合衆国の支援の元に中道諸派の連合による新政権を確立させるべく、1967年、総選挙を準備した。しかし、選挙の結果中道派政権が確立されることによる発言権の低下を恐れた軍部が陸軍将校を中心としてクーデターを起こし、結局アメリカが軍部の独裁体制を容認した。結局、反クーデターに失敗したコンスタンティノスは国外へ亡命した。
1968年には憲法が改正され軍事独裁政権が確立する。軍部は国内の批判勢力に対して激しい弾圧を行い、前首相パパンドレウを始めとして多数の著名人を国外に追放した。欧州各国からは軍部独裁政権に対して厳しい批判が向けられたが、ギリシャは地勢的にNATOの要であるとしてアメリカが軍事独裁政権を擁護・支援したため、ギリシャに対して実効性のある圧力が加えられることはなかった。
1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対する国民の不満が増大し、学生により大規模なデモなどの抗議行動が活発化する。軍事独裁政権の首班であったゲオルギオス・パパドプロスは大統領制を導入するなどの政策を行うが、国内経済が回復しないこともあって国民の抗議行動は収まらず、1973年、学生デモ隊による大学占拠に対して実力鎮圧を行った結果多数の死傷者を出したことで独裁政権の基盤が揺らぎ、パパドプロスの腹心で秘密警察長官であるディミトリス・イオニアデスがクーデターを起こし、パパドプロスは失脚した。
その後、パパドプロス政権の閣僚であったフェドン・キジキスが名目上の大統領に選ばれて軍部の独裁体制は続くが、1974年にギリシャが支援したキプロスでのクーデターが失敗に終わり、海軍と空軍が陸軍と秘密警察に対して態度を硬化させる。結果、軍事政権の中核を占めていた陸軍と秘密警察は孤立し軍部の独裁体制は崩壊、大統領フェドン・キジキスは国内の諸政治勢力と協議してフランスへ亡命していた元首相コンスタンディノス・カラマンリスに帰国を要請、帰国したカラマンリスを首相に指名した。
1974年11月11日に行われた軍事政権崩壊後初の選挙の結果カラマンリス率いる新民主主義党が多数の議席を獲得して与党となり、次いで行われた国民投票により君主制は廃止され共和制への移行が決定した(ギリシャにおける民主主義の回復については、活動的な役割を担ったアレクサンドロス・パナグリスも参照)。
1975年には憲法が再改正され、1977年の選挙の結果左派勢力の伸長があったものの政局の混乱は発生せず、ギリシャの政局は以後安定化する。1981年に欧州共同体 (EC) の10番目の加盟国となった。
1980年代には全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が選挙の結果過半数を確保して与党となり、社会主義政権が誕生、アンドレアス・パパンドレウはNATOと欧州共同体 (EC) への加盟に懐疑的で西側諸国を「帝国主義国家」と呼ぶほど親ソ派であったが、大きな外交政策の変更は行われず、NATOとECへの加盟は続行されたままギリシャは引き続き西側諸国の一員として冷戦の終結を迎える。
2004年には1896年以来108年ぶりに首都アテネにおいて2回目の夏季オリンピック(第28回アテネ大会)が開催された。それに先立つ2001年にはユーロ導入も実現したが、工業生産力が西欧諸国と比較して小さいギリシャの経済は脆弱で、2010年には統計操作による巨額の財政赤字隠蔽が発覚したことから、ユーロ圏全体や世界中を巻き込む金融危機へと発展した(2010年欧州ソブリン危機)。13地方(ペリフェリエス)とその下位区分の51の県(ノモス)、ギリシャ正教の聖地アトス山にあるアトス自治修道士共和国(アヨンオロス)で構成される。
ペリフェリエス
● アッティカ
● 中央ギリシャ
● 中央マケドニア
● クレタ
● 東マケドニア・トラキア
● イピロス
● イオニア
● 北エーゲ
● ペロポネソス
● 南エーゲ
● テッサリア
● 西ギリシャ
● 西マケドニアギリシャの国土は4つの地方に分かれる。まず、国土の約2割を占めるエーゲ海を中心とした島嶼である。最大の島はエーゲ海南方に浮かぶクレタ島 (8336km²)、次いでエーゲ海西部と本土の間に横たわるエヴィア島 (4167km²) である。次にコリンティアコス湾とコリントス運河によって他の地域と区別できる南部のペロポネソス半島である。国土の西海岸線に沿った形で南北に伸びるギリシャ最大の山脈ピンドス山脈は湿潤な西部と乾燥した東部を分つ。最後に、古代の都市国家を含む中央ギリシャである。
ギリシャの国土は山がちである。ピンドス山脈には2000mを超える峰がいくつもあり、北東のブルガリア国境にはロドピ山脈が東西に伸びる。ギリシャの最高峰オリンポス山 (2917m) はどちらの山脈にも属さず、東西、南北とも15kmにわたってひろがる独立した山塊となっている。平原から立ち上り山頂に雪を帯びたオリンポス山の姿は古代から神聖視されてきた。ほぼ全土がケッペンの気候区分でいう地中海性気候 (Cs) に区分される。従って、温暖で湿潤な冬季と乾燥し高温の夏季にはっきり分かれる。首都アテネの平均気温は、冬季の1月が10.1℃、夏季の7月では28.0℃である。年平均降水量は383.8mm。これは同じ地中海性気候に分類されるローマの約1/2と少ない。なお、最北部は山岳地帯であり、冬季に気温が下がる温暖湿潤気候 (Cfa) に分類される。主力産業は農業、鉱業、工業、輸送業、観光。農業では世界第3位の生産量であるオリーブ(200万トン)や世界8位の綿、同10位の葉タバコが際立つ。いずれも地中海性気候に合った作物である。しかしながら小麦やとうもろこしなど主食となる穀物の生産は振るわず、農業国でありながら食料を自給できていない。
鉱業では石炭が有力。石炭の統計は品位別に分かれており、低品位で主に燃料に用いる亜炭・褐炭では世界第4位(6,600万トン)である。マグネシウム鉱にも富み、生産量は世界第6位である。鉄、ニッケル、ボーキサイト、原油、天然ガスなど、生産量は少ないながら10種類以上の主要鉱物が見られる。
工業は食品加工業や繊維業などが盛んだったが、造船業、製鉄、石油化学工業も発達している。世界第3位のオリーブ油生産が突出している。
古代から地中海一帯で貿易を展開してきた歴史があるせいか、オナシス家、ニアルコス家、ラティス家、マルチノス家、ロス家、クルクンディス家、リバノス家と海運王が多く、輸送業の中心は船舶であり、船舶保有量は世界第4位の2,870万総トンに及ぶ。一般貨物船は船舶保有量(総トン)の3%と少なく、オイルタンカー、鉱石や穀物用のばら積み船が80%以上を占める。このような比率は船舶保有量上位10カ国には見られない特異な傾向である。ギリシャ人船主はパナマ(世界第1位)やキプロス(世界第6位)など税制優遇措置を利用できる国に自らの船を登録することも多く、実態を反映していない可能性がある。100億ドルの輸出に対し、輸入は300億ドルであり、慢性的な貿易赤字が続いている。しかしながら、輸送業、観光業、移民の送金などによって貿易赤字をほぼ充当できている。
主要輸出品目は、衣料、果実、石油製品である。これらにつぎ、アルミニウムの輸出が多いことが特徴である。主要輸出相手国は、ドイツ、イタリア、イギリス。主要輸入品目は、原油、機械類、電気機械である。主要輸入相手国はドイツ、イタリア、フランス。
日本との貿易関係は、日本に対してナフサ、葉タバコ、貴金属製品を輸出し、乗用車、タンカー、貨物船を輸入するというものである。このことから、ギリシャの石油化学工業や軽工業が機能しており、輸送業に必要な船舶を自前で調達していることが分かる。なお大理石の輸出も日本への輸出額の4.2%を占めている。1980年代に入ると、ギリシャの道路、鉄道はかなりの部分が近代化された。この中での重要な箇所にはギリシャ北西部(イグメニツァ)とギリシャ北東部を結ぶギリシャのエグナシア・ハイウェイが含まれている。リオン・アンティリオン橋(ヨーロッパで最も長い斜張橋、総距離は2,252m(7382フィート)は中央ギリシャのアンティリオンとペロポネソス半島のリオン(パトラから7Km、もしくは4マイル)を結んでいる。ペロポネソス半島西部のピルゴスへ続く、パトラ・アテネ高速道路の延長は2014年までに完成される予定となっている。
首都であるアテネの都市圏では2001年に新たにアテネ国際空港が開港し、さらに郊外を走る新たな民間の高速道路であるアッティキ・ハイウェイが2001年に開通、そして2000年以降、アテネ地下鉄が拡張された。
ギリシャの島嶼部と主要都市の多くはギリシャの二大航空会社、オリンピック航空とエーゲ航空によって結ばれている。航路は水中翼船、カタマラン(双胴船)を含む最新の高速船で運航されている。他のヨーロッパ諸国では重要な位置を占めている鉄道はギリシャでは主要地位ではない。しかし、新たにアテネ周辺への接続として、また、アテネ、テッサロニキ間の近代的都市交通として鉄道も拡大、2500kmもの路線の多くが複線へ拡充された。国際列車としてはギリシャの都市から他のヨーロッパ諸国、バルカン諸国、トルコへと接続している。ギリシャの公式統計機関であるギリシャ国立統計局((NSSG)の発表によれば、2001年のギリシャの全人口は、10,964,020人。その内訳は男性5,427,682人、女性5,536,338人であった[。1971年、1981年そして2001年とギリシャの人口統計は過去数十年行われることがなかった][ 。]
2003年の出生率は1000人に対して9.5人(1981年は1000人に対して14.5人)であった。同時に死亡率は1981年の1,000人に対して8.9%であったのが2003年には1,000人に対して9.6%と増加している。2001年の時点で65歳以上の高齢者は16.71%、15歳から64歳までが68.12%、14歳以下が15.18%であった[。]
ギリシャ社会は時を経ると共に急激に変化した。婚姻率は1981年の1,000人に対して71%から2002年まで低下し続けていたが、2003年には僅かに増加して61%となったが、2004年、再び低下して51%となった[。一方で離婚率は増加しており、1991年の時点で1,000組に対して191.12件であったが、2004年には1,000組に対して239.5組となっている][。ギリシャ人のほぼ3分の2が市街地に居住しており、2001年のギリシャ最大自治体は以下の通りであった。アテネ、テッサロニキ、ピレウス、パトラ、イラクリオン、ラリサ、ヴォロス]。
20世紀を通じて、何百万人ものギリシャ人がアメリカ、オーストラリア、カナダ、イギリス、ドイツへ移住、各地でギリシャ移民らは成功を収めた。しかし、この海外移住傾向は1980年代以降、ギリシャ経済の重要な改善の後、収まりつつある。ギリシャ人が98%、他にアルーマニア人、トルコ系、ユダヤ系、アルバニア人。主たる言語は、ギリシャ語。主たる宗教は、正教会に属するアテネ大主教の管掌下にあるギリシャ正教会。ただし、クレタ島とアトス山だけはコンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下にある。紀元前からギリシャは哲学や文化、芸術に様々な影響を与えてきた。その影響力の大きさから、ギリシャは「ヨーロッパ文化のゆりかご」と称されることもある。詳細はギリシャの文化およびビザンティン文化を参照。ギリシャ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が15件、複合遺産が2件存在する。詳細は、ギリシャの世界遺産を参照。オリンピック発祥の地。
国民に人気があるスポーツはサッカー。ギリシャ代表はUEFA欧州選手権に3度出場して2004年大会で初優勝。FIFAワールドカップは2度(1994年大会・2010年大会)出場した。ドイツ・ブンデスリーガでテオファニス・ゲカスが2006-07シーズンの得点王となった。
また、バスケットボールも盛んであり、2006年に日本で開催された世界選手権ではNBAでプレーする選手が不在の中、ドリームチームを下し準優勝となった。2010年7月17日、ギリシャ全土で、山火事が45件発生した。火は風にあおられて、首都アテネ周辺まで拡大している。アテネ周辺でも7件の山火事が発生している。昨年もアテネ近郊で、山火事が発生し、焼け残った森が焼き尽くされようとしている。 ギリシャ関係記事の一覧
ギリシア神話
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** ギリシャ共和国大統領府 ** ギリシャ共和国首相府 ** 駐日ギリシャ大使館 日本政府
** 日本外務省 - ギリシャ ** 在ギリシャ日本国大使館 観光
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